間世さんを探して

Looking For Mr.MASE
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1939年の日記から (1) 元日
 1939(昭和十四)年は卯年。博文館発行のこの年の当用日記が一冊、手元にある。

 版元による巻末付録に「景勝写真集」のページが設けられているのが不思議な感じだが、そこで小図版を掲げる各地名勝のラインナップは、摩周湖(阿寒国立公園)、奥手稲の雪景(札幌付近)、奥入瀬の渓流(十和田)、松島、犬吠岬(銚子)、焼岳の噴煙、甲州御坂峠より見たる富士、元箱根と蘆の湖、保津川の景勝、黒部渓谷の壮観、大台ヶ原(吉野熊野国立公園)、奈良公園、紀の松島(紀州)、鞆の浦鳥瞰、安芸の宮島、面河渓(愛媛)、開聞岳(鹿児島)、以上である。
 また別に、「北支中支方面要図」「中支南支方面要図」や、「国家総動員法」全文なども収載、日中戦争がすすむ時期にあることが当用日記の体裁のはしばしに反映されている。

 一冊を見ていくと、「金銭出納録」「家庭ノート」「家歴」「戸籍表」「被服寸法控」「住所人名録」等は未記入のままだが、毎日の日記欄はすべて万年筆の細字で几帳面に埋め尽くされている。この日記帖の主人をさしあたり、K と呼ぶ。

 Kは元旦6時に起床。神仏礼拝の後、雑煮で祝った。朝のうち来客があり、賀状もかなり早い時間帯に届いた模様、「例年の三分の一位来る」と記す。9時から地域の小学校の拝賀式に参列し、終了後はそのまま宿直室で校長や教師たちと囲碁を打つ。7番打ってすべて負けた。2時に自宅へ戻ると、一家の子どもたちはみな「活動へ出かけたとてシンとしている」。
 その当時、Kは齢四六歳だったはずだ。
 先妻の産んだ二女一男、1939年現在の妻が産んでいた二男があり、仲良く正月興行の映画を観に出掛けたのだろうか。記述の中に妻の姿は見えてこない。4時に風呂に入っていると、子どもらが帰ってきてまた賑やかになる。

 「夕方、縁側の板戸締らず無理したところカマヂが割れてやっとはじれた」。
 カマヂとは何か? 南部地方の言葉で、敷居のことを「かまじ」というらしい。Kは北海道渡島半島・上磯の人なので、話していた言葉は南部弁というわけではなかっただろうが、ともかく敷居のことと受けとっておく。この縁側のある家は、2008年現在も生きて残っていて、昨年もお訪ねした。江戸末期の民家建築だ。

 Kはこの頃、養魚場を経営していた。「稲村からやまべ百尾の注文あり、明朝雪降りでなかったら自転車で出かける積りにして」準備をしてから、小雪チラチラするのを心配しつつ6時半頃、雨戸を閉ざした。
HPA、再出発のご挨拶
函館市豊川町の「はこだて写真図書館」は、諸事情のため、このたびスペースをいったん閉館するはこびとなりました。
これまでの皆様からのご支援、ご愛顧、大変ありがとうございました。

しかし、同図書館、および併設のギャラリー、カフェの運営をおこなってきたNPO法人「はこだてフォトアーカイブス」は、函館を拠点にこれからも引き続き、活動してまいります。


当面の指針として、

1)旧はこだて写真図書館の蔵書、写真資料を散逸させず、その保存に努め、公共の文化的資産として新たな活用・一般公開のかたちを実現させる。

2)函館を中心とした地域の写真、映像資料の調査研究を継続し、その成果を公表していく。

3)函館市十字街(末広町)「まちづくり交流センター」内の展示室等で、函館の歴史的写真を中心にした展示企画を定期的に催していく。


以上3点を掲げ、これらの実現にむけて努めていく所存です。
はこだて写真図書館ウェブページにて、新たな活動状況を随時お伝えしてまいります。


皆様からのご鞭撻、ご支援を、今後もどうぞよろしくお願い申し上げます。
近刊案内
『大辻清司の写真−出会いとコラボレーション』
 光田由里、大日方欣一・編
 フィルムアート社 2007年6月5日発行
 ISBN978-4-8459-0709-0 C0072  2400円(税抜)

「モノの不思議さ」を見つめた写真家大辻清司(1923〜2001)は、敗戦後まもなく創作活動をスタートし、前衛美術家の斉藤義重、阿部展也、詩人・批評家瀧口修造らとの交流をとおし、実験的な協働制作を試みたことでも知られています。1960年代からは、写真教育の場に立つようになり、その教室からさまざまな優れた写真家(高梨豊、潮田登久子、牛腸茂雄、畠山直哉ほか)が巣立ちました。写真についての思索を綴るエッセイストとしても重要な仕事を残しています。
大辻という人の仕事を、生涯の軌跡にそってたどる展覧会が、まもなく、東京の渋谷区立松濤美術館で催されます(2007年6月5日〜7月16日)。
展示にあわせて同時出版される本書は、出品作を収めたカタログであるとともに、大辻執筆のエッセイを多数再録したアンソロジーとして編集されており、この写真家が積み重ねた思索のあとをたっぷり味わうことができるはずです。(瀧口修造に宛てて自らの写真観を縷々綴る長文の手紙や、来日した名ピアニストのアルフレッド・コルトーを撮影した印象記なども収録。)
あまり類のない、面白い本ができた、と編者の一人として自信をもっておすすめする次第です。大辻清司の新刊、どうぞご高覧お願い致します。

  *   *   *

この本を準備しているさなか、戦後すぐの1950年前後に刊行されていた『月刊写真手帖』(編集人・奈良原弘)という雑誌があったことを知りました。若い大辻清司が、最初に作品を発表した媒体がこの雑誌だったのですが、その1950年1月号をひもといていて、大辻作品のすぐ隣りのページに来て、はたと視線が固まりました。そこに、気になるあの人の名前が記されていたから。
函館出身の懐かしい写真家、間世潜(ませひそむ)の名です。
文・奈良原弘、撮影・間世潜による「木村伊兵衛自宅訪問記」という記事。そのテキスト冒頭は次のように始まっていました。

「十一月の中旬、時雨模様のある寒い朝、思いついたが吉日と、間世さんにカメラ担当を連絡して午前九時に省線鶯谷駅ホームで待合わせ、二人で木村伊兵衛さんの寝込みを襲うことにした。この辺は戦災を免れた家と焼跡に建った家とが背中合せになっていて、以前と大分趣が変わってしまった。根岸名物の御行の松はかなり前に枯死したと聞いていたが、来て見るとその名残りの切株も黒く焼けただれ、傍らに名ばかりの細い松が植えられ、堂宇はなく、一基の碑があるばかり、没趣味なバラックに囲まれたわびしい空地になっている。この前を湾曲して流れていた音無川も今は暗渠となって跡形もない。木村さんの家は、大言海の著者故大槻文彦博士の屋敷の横を入って行った所と記憶していたが、町の様子がすっかり変わっていて見当がつかない。すると眼の前にポリス・ボックスがあるので番地を云って尋ねると、この先の左側に下駄屋があるから、その辺で聞きなさいと教えてくれた。下駄屋を目当てにうろうろしていると、『おおい!』という声がする。ふと向こうを見ると、建仁寺垣をめぐらした一軒の平家の窓に、木村さんの顔がこっちを見て笑っている。
 『なんだ、僕のとこへ来たの、何か用?』
 うしろに控えた間世さんは、携帯用ライトやシネ三脚を小脇にかかえた物々しい格好なので、木村さんもちょっと驚いた様子であったが、『まあ、お入んなさい』と愛想よく迎え入れる。」


つい長く引用してしまいました。朝の根岸、焼跡の匂いにする雨の町に、間世さんが機材をたくさん抱え登場しています。(大辻作品「いたましき物体」のすぐ隣りで。)
写真家間世潜の事跡を、ひきつづき探してみたいと思います。後日談はまた、あらためて。
久生十蘭オフィシャルサイト準備委員会
間世ブログ、だんだん動き出したいと思っているのですが、
函館ゆかりの作家久生十蘭についてのブログと出会ったので
お知らせまで。

http://blog.livedoor.jp/hisaojuran/

間世潜とはほぼ同年代、しかも久生は若い頃に函館新聞、間世のほうは北海タイムスの記者だったので、その時期も近いようであり、お互い顔見知りであったろう、と想像できますね。
新刊本の表紙に、間世さんの写真発見
書店で見かけた新刊、

新潮社 とんぼの本
『永井荷風 ひとり暮らしの贅沢』
永井永光、水野恵美子、坂本真典 著
4-10-602142-0

http://images-jp.amazon.com/images/P/4106021420.01.LZZZZZZZ.jpg

この表紙に使われている荷風のポートレイトは、間世潜撮影です。
はこだて写真図書館「間世潜の部屋」に展示しているものと同じカット。
(同書では、詳細不明の写真として扱われていました。)
distance
http://www.chukyo-u.ac.jp/c-square/top.html
http://www.chukyo-u.ac.jp/c-square/2006/75/75top.html

6月26日(月)−7月29日(土)の会期で、名古屋・中京大Cスクエア
「distance 関口正夫・三浦和人・牛腸茂雄展」が開催されます。
(リーフレットに寄稿した文章をここにも載せてみます。)



〈習慣としてのスナップショット〉

 この展覧会は、二つのパートで構成されている。
 会場入口からの第一のパートでは、今からおおよそ30数年前、1960年代後半から70年代初めに写された光景の群れがならぶ。そろって1946年生まれの牛腸茂雄、関口正夫、三浦和人が、同じ東京渋谷の専門学校・桑沢デザイン研究所の写真コースで学び、撮る活動をスタートさせて数年のあいだの、それぞれのスナップショットだ。
 その頃の三人の写真を見直すと、目の生理や体質に違いがあり、けして一括りにはできないものの、そこに共有しあう姿勢や、根底をなす近しい態度といったものを窺うことはできるだろうと思う。
 かくべつ前提となるような主題やコンセプトを立てずに、気ままに歩きだして、自分がふと、なにを見るのか、なにに反応してシャッターを押すのか、歩きつつ撮る経過を味わってみる。どっしり重心を一つところに下ろすのではなく、わりあい軽いステップでほうぼうへ動いていく。画面のどこか一箇所に強い意味の中心をもうけず、クローズアップしない、周囲を広めに取り入れるフレーミングで、偶々身をはこんだ(横切っている途中の)その場の日常的なものごとを写す。
 流動的な現実のただ中で、今ある状態を感じとるすべとして、歩くことと撮ることの習慣を養っていく。若い彼らはこの時期、スナップショットの行為をおもいおもいに、日々習慣化しようとしていった。
そうした積みかさねをつうじ、その時々の息づかいとともに綴られた、自己と取り巻く世界とをめぐる視覚的記述。牛腸と関口の写真集『日々』(1971年刊)、そして三浦が沖縄滞在中に撮影した「函の中のかわたれどき」シリーズ(72年)からの諸作。

 続く第二のパートでは、関口、三浦の撮影行為がその後にたどってきた現在までの流れから、両者が今の眼で自分の写真を眺め直し、新たに選びぬいたショット群をならべる。こちらのパートは、いわば、30代で夭逝した牛腸茂雄(1983年没)に対する、二人の友からの、時を経た遠いメッセージの投げ返しでもあるはずだ。
 先ほどふれた関口との共著による写真集『日々』を自費出版した後、牛腸は、日常世界のフィールドワークをさらにすすめ、切り口の違う二冊の写真集『SELF AND OTHERS』(77年)、『見慣れた街の中で』(81年)を遺した。彼は思慮深い一面を持ち、アイデア豊富な、そしてまとまりある作品をかたちにして生を刻むことに熱意を注ぐ写真家だった。その作品行為は、近年も美術館でのレトロスペクティブ展示がおこなわれるなど、たびたび注目を集め、多くの人たちの心に反響をもたらし続けている。
 関口正夫と三浦和人は、そうした牛腸の写真の展開ぶりを同時代的に、近いところから見つめ、また、彼がいなくなった後もたぶん意識のうちでそれを反芻してみながら、各々の持ち場で、それぞれにスナップショットの行為をかさねてきた。1960年代末に緒についた歩くことと撮ることの習慣を、40年あまりにわたって。
 関口の「こと」、三浦の「まずは記録まで」。彼ら二人が、青年期を過ぎて今へいたるまでに、眼差しをどのように接いできたか。それをまとまったかたちで対照しつつ眺められるのは、今回が初めての機会となる。牛腸を含めた三人の眼の履歴が、互いにどう響きあうか。はたして、どんな写真と写真の対話を呼び起すだろうか。

 自分が歩いているすぐ足元の日常から、撮ることが始まっていく。習慣としてのスナップ行為をとおして、露わになってくるものをだいじにする。そしてまた、三者三様ではあるが、彼らはそれぞれ、カメラアイで人を感じようとする、他人の感触を求めていこうとするところにも、共通項を持っているといえよう。
 スタートの頃、牛腸はよく、人の敏捷な身ぶり、伸びをしたりジャンプしたり駆け出したりする動きに触発され、シャッターを押していた。それとはだいぶ違って、関口の視線は当初から、他人のつかのまの虚をつく、放心の一瞬へと惹かれる傾向があり、また「こと」のスナップ群を撮っていく中で、他人が引きずっているカラダや気分への感応を深めてきているように見うけられる。いっぽう三浦のスナップショットには、他人の存在感をキャッチしつつ、同じ場所にいることを体感し、一時ではあれそこに溶けこんでいたいという衝動らしいものが、画面から滲むことが多いのではないだろうか。
 ともあれ、観客としてこの会場に立つとき、どのようなフィールドがそこに立ちあがってくるのか。三人の写真と、じっくり語らってみたいと思うのである。
お汁粉屋の写真家
 一つの土地に根をおろし、そこで生涯をまっとうする人もいる。一つところに留まらずに、あるとき、別の土地へ移って、新しい暮らしを始めていく人もいる。
 函館生まれで、北海タイムスの新聞カメラマンだった小林政次(1904〜59、後に“間世潜”と名のる)は、その職業柄、勤務地の転属をいくたびか経験し、札幌や青森県大湊にいた時期もあった。しかし、第二次大戦中までは、出身地で培われた地縁血縁から遠ざからずに、函館の人々とのつながりを親しく保って仕事していたことがうかがわれる。その彼が、戦争が終わって同社の東京支局に赴任すると、まもなく勤めを辞しフリーとなり、自らの決断で、拠点をすっかり東京へ移した。
 戦時中までの函館から、焼け跡闇市時代の東京への思いきった場面転換。小林政次が写真家「間世潜」を名のりだすのは、この時点からのことだ。
 新たな生活の背景となったのは、上野の山に近い、谷中近辺の地区だった。彼を取り巻くことになった東京での交流の模様にかかわる証言を、最近ある本の中に見つけたのでご紹介したい。浅尾丁策著『昭和の若き芸術家たち』(芸術新聞社、1996年刊)という一冊から。

 故・浅尾丁策さん(1907〜2000)は、画材商、そして本邦初の専門的な油絵修復の職人として活躍された方だ。神田駿河台下の竹見屋画材店で修業し、1927年独立、上野桜木で浅尾拂雲堂を営んだ。多くの画家たちの制作と、間近にかかわり、交流した歳月を自ら書き綴った、半生記『谷中人物叢書 金四郎三代記』(1986年刊)を上梓しておられ、その続篇にあたる『昭和の若き芸術家たち』では、敗戦直後からの日々を回想している。
 戦争中に自由を奪われ、画材を手に入れることもままならなかった美術家たちが、戦後になって活動を再開していく様子を伝えた、いろいろと興味深いその記述の中に、とつぜん、間世潜が登場してくる。あるとき(1947、8年頃かと思われる)、浅尾さんは自転車で谷中萩寺のそばを通りかかった。
 「フト見ると鄙びた汁粉屋が目についた。そして入口左手に『間世潜写真展』と貼り紙がしてあった。間世潜という面白い名前にひかれた私はお汁粉が嫌いでなかったので、道端に自転車を立てかけておいて店内に入ってみた。風景や人物の芸術写真、なかなかの出来栄えと見た私は、汁粉を運んできた、若いきれいな奥さんらしい人に、この写真を撮られたのは、どういう方ですか、と聞いてみた。/アナタ! との声につられて仕切りの暖簾を分けて、四十がらみの小太りのニコやかな本人が現れ、どうぞこちらへお入り下さいと奥の部屋に導かれた。そこは立派なスタジオになっていて大きな机の上には沢山の写真が山積みにされていた。」(同書30頁)

 お汁粉屋の暖簾の奥から現れた彼、すなわち写真家間世潜は、この出会い以降、浅尾さんに仲立ちされ、新たな人々とつながりを持つようになったらしい。当時、浅尾さんは自分の店の倉庫二階に、「プール・ヴー美術研究所」(命名は彫刻家木内克による)を開き、人物デッサンを学ぶ人たちのための場とし、また、研究所に併設して小さな画廊を運営し始めていた。この画廊で1948年6月、谷中近辺に住んでいた新鋭・中堅どころの美術家たちのグループ「カルチェ・ヴァル」(谷中という名称をフランス語におきかえて名づけたもの)の小品展が催され、野間仁根、阿以田治修、鶴岡政男、朝倉摂、田代光、大河内信敬、長谷川三千春、等々の人たちにまじって、間世潜も自作を出品しているということだ。その当時撮られた、カルチェ・ヴァルのメンバーたちの集合写真(同書35頁掲載)の中にも、間世さんの微笑む姿を見つけられる。谷中の芸術家たちのネットワークに加わり、彼はそこで、さまざまな発想上の刺激や糧を得たことだろう。
 翌1949年、浅尾さんはデッサンのための女性モデル紹介業をも本格的に手がけだすのだが、戦後になってからの間世の写真活動が、女性を撮ることを軸として繰り広げられたことを考えあわせると、いっそう興味深く思われてくる。焼け跡が残る東京で、若い画学生たちが女性デッサンにとりくむ、その気運にふれ、近しくそうした光景を目の当たりにしながら、間世さんはカメラで女性像を描きだすことに打ち込んでいったのだ。

 同書にはまた、プール・ヴー美術研究所の記念イベント(1953年)を、間世さんのアイデアで浅草のストリップ劇場「ロック座」で開催したいきさつが記され、また、間世さんの代表作『ライカ写真集トラピスチヌ大修道院』の撮影が、浅尾さんの隣家に住んでいたドミニコ会修道院のルーベル神父による橋渡しで、許可され、実現するはこびになったことが語られている。
 それにしても、谷中初音町の彼のスタジオで、お汁粉屋も営んでいたとは知らなかった。ほぼ同じ頃、間世さんより一世代下の写真家大辻清司さん(間世さんの遺したアドレス帖にその氏名と住所が書きとめられていた)は、新宿のバラック建てのスタジオで、製麺加工(うどん作り)を副業としていた、と、ご本人からうかがったことがあるが、どちらも戦後の匂いを伝えるエピソードという気がする。フリーの写真家と食べ物の商いの兼業で、今日を食いつなぎ、活動していく姿。浅尾さんの証言をつうじ、また少し、写真家間世潜のいた世界に近づく手がかりを授けられた。
間世ブログを、はじめる
2002年8月にWeb上で始めた「潜日誌」(写真家間世潜の事跡を追いかけるのをテーマとしつつ、身辺雑記もまじえた日録ページ)は、途中、たびたび中休みしながら書いてきたものだが、ここのところ長く中断した状態になっていて、もう続けないのか、などと人に訊ねられもした。続けるつもりだ。
月日がだいぶ経過していることに、いま、少々茫然としているところだが、この間に、当初は思いもよらなかった出会いがあり、間世さんの姿がゆっくり視界の遠くに見えかかりだしてきている。

これまでの日誌記事をブログの形式へ移した。
「間世さんを探して」のタイトルで、再開しよう。
直接、間世さんに関わりのない、私(大日方)の活動に関わる報告や、所感なども書き込むことになると思うが、どこかでつながりがでてくるかもしれないと感じつつ、そうするのである、きっと。

現時点で、間世さんの履歴などについて把握できていることは、右欄「Profile」に記しておいたので、ご参照いただければ幸いです。では、再開。
訂正
 日誌の続き。
 これまで、ここに書き込んできた中で、間違いがあることが判った。一昨日、写真家間世潜のご長男、間世たけ志さん(写真家、故人)の奥様に初めてお目にかかる機会を得た。「間世さんを探して」と題するページを開いて、幾星霜。ここへ来て、突然嵐のごとく間世さんに急接近できた思いだ。たくさんのお話を伺えた。


 まず、間違いの訂正を幾つか。
●間世潜の本名は、小林政治ではなく、政次であった。戸籍謄本のコピーを確認すると、出生地は函館・松川町、1904年生まれ。
●『ライカ写真集トラピスチヌ修道院』を自費出版したため、経済的に逼迫し、谷中初音町のスタジオを閉じ、浅草へ移った、とする木村伊兵衛の証言(桑原甲子雄が書いた記事中で紹介されている)は、憶測の域を出ないもので、実際には別に明瞭な理由があった(家庭内の事情による)。
●木村伊兵衛の追悼文では、生前の間世潜が「カクテル」を愛飲したように記されているが、少なくとも晩年はもっぱらビール党だった。しかもアサヒビールしか呑まなかった。浅草のアサヒビアホールへは月々に相当額の支払いをしていた、とのこと。
●間世潜には「二人の娘」ではなく、二人の息子さんがいる。次男の方は、大学教授として今も活躍されている。
●トラピスチヌ修道院の撮影を始める以前から、間世潜はクリスチャンだった。(撮影のために洗礼を受けた、という記事は誤り。)


 長男・間世たけ志さんの奥様は、1958年頃、晩年の間世潜のスタジオで働かれた方で、深い尊敬の念をこめ、この写真家の思い出を語って下さった。彼愛用の太縁眼鏡に触らせていただいた。元浅草のお寺へご一緒し、間世さんのお墓にお参りしてきた。
音楽の旅 (函館)
 雨の函館。いつも行く棒ニ森屋裏の喫茶店でモーニングセット。
 新聞でスティーヴ・レイシーさんの訃報を知る。十数年前、富樫雅彦、ドン・チェリー、ディヴ・ホランドとのクァルテットでのコンサートを筑波AKUAKUでやった、あのニ晩は、わが生涯最良の時の一つである。黙祷。
 和光デパート地下の古本屋、今回は音楽関係書、楽譜などがかなり大量に出ていた。伊福部昭著『音楽入門』と、探していた園田高弘著『音楽の旅』をしめて1000円で入手。これはしみじみ嬉しい。
 本日6月10日は「路面電車の日」、市内、路面電車どれだけの区間乗っても均一200円也。
 はこだて写真図書館で津田さんと、もろもろの件につき打ち合わせ。星龍軒のラーメンを食べ、空港へ。函館空港も改装がすすんでいた。
 夜遅く、自宅へ辿りつく。今度の巡業は、非常におもしろかった。

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